20180825

受容しなければならないことの正体

今年の2月、私にとっては35歳と1か月の時点で1型糖尿病の診断を受けた。それから約半年が経過したわけだが、このブログで散々、書いてきたように、その間、私の心はあまり晴れやかなものではなく、どちらかというと常に重たい感じがしていた――心に重さなり質量なりがあるのであれば、だが。

それは当然、1型であることのストレスやら不安やらに起因する部分がある。血糖値測定もインスリン注射も、現在では過去に比べるとはるかに便利になった(インスリンが発見されていない100年前ならそもそも生存できなかったわけだし)といえども、「あなたのβ細胞もうダメぽ。現時点では治すこともできない」と告げられれば、さすがにキツイものがある。

……が、今になって振り返ってみると、私の心にのしかかっている「何か」の本体は、1型であることとは違うものであることに気付く。

この半年、「何を見聞きしても、過去の記憶が想起されたり、見ているものを全て記録しておきたくなる」という傾向が私にはあった。休日の散策中に水田を見るだけで高校時代の通学路の情景が脳内いっぱいに広がる、ALBAの時計を見ると小学生時代に親に買ってもらった時計を思い出しその行方が気になって仕方がなくなる……といった具合だ。これは極めて一般的な心的現象かもしれないが、最近の私はその頻度が異常に多かった。

このことは何を示しているのか。恐らく「時間は流れるものである」ということに敏感になっていたということ――というよりも、そのことにようやく気が付いた(35歳にもなって!)ということであろう。

学校を卒業して以来の10年間、「時は止められない」「何事もいつか終わりが来る」ことを私はあまり意識していなかったようだ。平日は仕事して、休日は読書かゲームして、長い休みには故郷に帰って、という暮らしを続ける中で、それに強制的な変化がもたらされる事なぞ考えてもいなかった。

特に何のライフイベントもなかったということも大きいだろう。実のところ転職したり転居したり、近親者の冠婚葬祭に出たりと、人生の移り変わりを感じさせるはずのイベントはいくつかあったのだが、自分自身、それをライフイベントと認識していなかった節がある。

そのような私が、1型糖尿病であると診断されることで、つまり、不治の慢性疾患であると告げられることで、今になって「物事には終わりがある」ことを意識せざるを得なくなった、というのがこの半年だったのだと思う。

まず第一に「自分の人生には終わりがある」ことに気が付いた。極論すると、それまでは自分は不老不死だと思っていたに等しいのかもしれない。そして、それに次いで「自分以外にも終わりがある」ことに気が付いた。少なくとも素朴な意味での「永遠」を生きることはできない。やはり万物は流転しているのである。

結局のところ、「あ、もちろん気が付いているとおもうけど、君にも君の世界にもタイムリミットあるからね」と告げられて、ひたすらとまどっていた、というだけの話である。35歳にもなってようやくそんな時期を迎えているのもどうかと思うが(私は精神年齢の成長が標準よりも10歳ぐらい遅いのかもしれない)、半年の間、自身の心に潜んでいたもの、そして、受容しなければならないものの正体を知ることができた。

頭で分かっていても心で受け入れられないこと、それが問題の根本なのかもしれないが、少なくとも頭で分かることができただけでも、一つ進んだと捉えたいものである。

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